第22回 第2部 激動期 1960年〜70年 少年誌の躍進









『あしたのジョー』







第2部に入り7回目です!



時代は60年代に入り、日本は
高度経済成長期に入ります。



時代は古き良き
昭和!ブリキのおもちゃ!広がる田んぼ風景




そして、70年には
大阪万博も開催されます!




あの頃は良かった、みんな
希望に溢れていた・・・(遠い目)









うそつけぇぇぇぇぇぇ!!






この頃、資本主義のアメリカと共産主義のソ連との対立が
激化!



62年には
核戦争一歩手前のキューバ危機!



そして、68年には
ベトナム戦争!



日本でも全共闘運動で
過激な学生運動が最盛期を迎えます。



この頃、核戦争で人類は滅びるのではと
不安が大きなり


混乱と
激動の時代だったのです!








貸本屋の最盛期




前置きが長くなりました!
本題に入ります!


60〜70年代にかけて貸本屋は
最盛期を迎えます。



大手出版社の表現の規制や〆切もなかったということで



貸本屋は
劇画怪奇マンガなど様々なジャンルが生まれ



商業誌でも、多くの優秀なマンガ家を輩出しました!



その自由さから
差別問題などに迫った、大人向けのマンガも生まれます。





「大学生がマンガを読むようになった」


と驚かれたのもこの頃でなのです!







筆渦事件




そんな中で事件は起こります。



62年、貸本マンガ家の
平田弘史さんは


日の丸文庫から『血だるま剣法』を出版します。



平田さんの作品の表現は以前から


『残虐である!』と抗議を受けていたそうですが




『血だるま剣法』では部落差別の問題を扱っていました。




現在でもタブーと言われる
部落差別問題の詳細はこちらにて!





内容は激しい
差別に苦しむ部落出身の少年が


差別者に
復讐すると言うストーリーだそうです。




部落差別と言う
悲運な運命の中、それに一人で立ち向かい


差別の理不尽さ、その
苦悩を訴える作品だったのですが



当時の
部落開放同盟はその内容に容認できなかったようで



激しい
抗議のため編集担当者は辞任に追い込まれ



全国の貸本屋で
『血だるま剣法』は回収され


開放同盟員の前で焼かれることになります。



マンガがそれだけ、世間に
影響力を持った結果ともいえます。



これ以後、マンガは
市民団体差別に反対する人々から


表現をめぐり激しい抗議や圧力を受ける様になるのです。







『血だるま剣法・おのれらに告ぐ』復刻版
2004年 40年の封印を経て復活!










少年誌の躍進




60年代に入ると少年誌の
躍進が目立つようになります。



59年に
「少年サンデー」 そして60年には「少年マガジン」が創刊され


68年には両誌とも
100万部を維持するようになり



同じ年、遅れながら
「少年ジャンプ」


69年には
「少年チャンピオン」が創刊します。




この当時の代表的なマンガ作品は




少年マガジン



  『8マン』 原作・平井和正 画・桑田次郎
  『ワタリ』 白土三平
  『巨人の星』 原作・梶原一騎 画・川崎のぼる
  『あしたのジョー』 原作・梶原一騎 画・ちばてつや
  『丸出だめ夫』 森田拳次





少年サンデー



  『おばけのQ太郎』 藤子不二雄
  『0マン』 手塚治虫
  『おそ松くん』 赤塚不二夫
  『伊賀の影丸』 横山光輝
  『スポーツマン金太郎』 寺田ヒロオ







少年サンデー
手塚治虫さんを始めとする


『トキワ荘グループ』のマンガ家が多いですね!




当時では
ギャグマンガが一世を風靡(ふうび)し



その代表格が少年サンデーで
『おそ松くん』連載した赤塚不二夫さんでした!



赤塚さんは67年には少年マガジンでも
『天才バカボン』を連載し


これもまた
大ヒットとなります。






少年マガジン創刊号 1959年
こぉぉぉい!濃すぎっすよ兄貴!










二人の『藤子不二雄』




この頃、
藤子不二雄さんの


『おばけのQ太郎』が国民的なヒットを記録します。




ちなみに
『藤子不二雄』とは高校時代からコンビ組む


藤本弘さんと我孫子素雄さん二人のペンネームです。




二人は64年の
『おばけのQ太郎』までは一緒に描きますが





その後、
作風の違いから二人は別々でマンガを描き



一緒にマンガを描くことは、ほとんどありませんでした。




しかし、
87年の正式にコンビ解消の発表まで


同じ『藤子不二夫』の名前で作品を発表し続けます。





藤本さんは藤子・F・不二雄として『ドラえもん』『パーマン』など


我孫子さんは藤子不二雄Aとして『忍者ハットリくん』『笑うせえるすまん』など


それぞれヒット作を生み出します。




ちなみに
藤本弘さんは96年『ドラえもん・のび太のねじ巻き都市冒険記』


を描いている最中に倒れ、帰らぬ人となりました。






少年サンデー別冊「おばけのQ太郎」(藤子不二雄)
この作品後、藤本さんと我孫子さんは別々に活動をする。










『巨人の星』と『あしたのジョー』




「少年マガジン」
では大きな反響を呼んだ作品があります。



それは
梶原一騎・原作の


『巨人の星』(川崎のぼる)『あしたのジョー』(ちばてつや)です!




この2作品はスポーツと根性の略の


スポ根マンガのジャンルが確立します!




特に
『あしたのジョー』は社会的影響を大きく与えた作品で




どうしようない不良で、短気でまっすぐな性格の主人公が
困難に立ち向かい


己の道を突き進みながら、やがて
破滅の道へ向かっていくと言うストーリーは




当時の学生運動の
若い世代を中心に大きな共感を呼び起こします。




70年に赤軍派の学生達が日航機を
ハイジャックした際




「われわれは『あしたのジョー』である。」



と声明を発表したことは有名な話です。



その後、彼らはその日航機で北朝鮮に亡命し


日本人拉致事件に関わったと言われています。







『あしたのジョー』(1967〜73年)
ジョーの生き方に共感するファンは今でも多い。









虫プロダクションの誕生




そして、この頃もっとも
重要なのは


当時、マンガ界で
大活躍していた手塚治虫さんが


自身の人脈を使い
アニメーション制作会社を立ち上げます。




名前はその後、
『虫プロダクション』と命名され



1963年には日本初の
連続テレビアニメシリーズとなる


アニメ版
『鉄腕アトム』(63〜66年)を制作!




そして65年には、またまた日本初となる
連続カラーテレビアニメ


『ジャングル大帝』(65〜66年)を制作します。




この2作品は世界中で放送され、日本アニメの
さきがけとなりました。




しかし、
虫プロは慢性的な人材不足安い制作費


に苦しむことになります。




これは現在でも、日本の全ての
アニメ制作会社が抱えている問題です。





マンガの連載とアニメ制作、会社の経営の負担は
手塚治さんに


一気にのしかかり、これが
手塚さんの寿命を削る原因になります。




しかし、マンガの第一人者である
手塚さんがアニメに関わる


ことにより、
マンガ原作のアニメが一般化し


マンガとアニメは
飛躍的な発展をとげることになるのです。





手塚治虫さんの功績はまさに


『日本マンガの神様』



と言っても過言ではないと私は思います!





余談ですが、
虫プロには富野 由悠季さんが入社します!



手塚さんの元で地道に下積みを積んだ富野さんは後に


『機動戦士ガンダム』(79年)を世に送り出すのです。








アニメ版『鉄腕アトム』(1963〜66年)
最高視聴率は40%をマークした






以上!
本当はもっと詳しく紹介したいんですが


長くなりすぎちゃうので、かなり
駆け足になってしまいました・・・


個人的には
『あしたのジョー』をもっと紹介したかったんですが(笑)


別の形で紹介できたらと思います!





次回はマンガの成長期あたる70年代。

創刊が相次いだ少年誌の激しいサバイバルの時代に突入します!





次回へ続く!




2006年12月27日 制作


勝手ながら下記のHP・文献を参考に書かせて頂きました。

ありがとうございました!


「現代マンガの全体像」 双葉文庫
著・呉智英


http://www.starleaf.net/~airami/index.html


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki


MAG’s Life
コラム 「虫プロ」の功罪


http://f16.aaa.livedoor.jp/~maghp/index.htm





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