特別編 第3弾! 『スタジオジブリの誕生』

〜日本アニメ界の巨匠 宮崎駿の人生〜















特別編第3弾!



もはや説明不要のスタジオジブリの紹介をしたいと思います。



ただの作品論なら他のサイトでたくさんやってますので



ここでは
宮崎駿さんの人生にスポットライト当てて行きたいと思います。










スタジオジブリとは?




説明不要だと思いますが、日本一有名なアニメ制作スタジオです。



日本の
映画興行成績歴代1位を誇る『千と千尋の神隠し』を始め



『魔女の宅急便』『となりのトトロ』、最近では宮崎吾朗氏の『ゲド戦記』ですね。


もともと、
トップクラフトと言うアニメーション制作会社が宮崎駿さんと組んで


『風の谷のナウシカ』を大ヒットさせたことが、スタジオジブリ設立のきっかけとなりました。




その後、世界的にもヒットを飛ばし、日本アニメ界の
巨匠として君臨する宮崎駿監督。



その、独自の作品の原点は幼少時代からの体験から成り立っているのです。







宮崎駿の誕生




宮崎駿さんが生まれたのは1941年の日本が
アメリカ、国などとの戦争の真っ只中。



日本中が生活に苦しむ中、
軍需産業関係の仕事に就く父のおかげで




宮崎家は苦しいながらも、一般人に比べて比較的恵まれた環境と言えます。





宮崎駿さんが4歳の時、町が米軍に空襲され人々は逃げ惑いました。





宮崎一家はトラックで避難していたところ、助けを求める近所の父と娘を振り切って避難しました。



あの時、
「助けられたんじゃないのか?」4歳の宮崎少年にとっては衝撃的な記憶、



そして、軍需で生活を養っていた事実は
罪悪感として



宮崎駿さん自身を後々まで苦しめる事になります。



また終戦後も、病気がちな母は寝込むことが多く



幼いながらも宮崎少年は母を失う
恐怖を多く感じさせられます。




この、戦争時の体験と母への想いこそが宮崎駿作品の大きな原点なので







中学〜大学時代




勉強が比較的でき、絵もクラスで
1,2番を争うほど才能があった宮崎少年は




趣味の読書、映画、そして大好きだった
手塚治虫さんの影響を受け






早い段階でマンガ家への夢を志すようになります。





絵の技術を磨くため美術大の志望をしますが、親に反対され断念。



学習院に進学し、そしてデッサンやクロッキーの勉強を始めます。




そして、今ほどマンガのサークルがほとんどなかった時代




青年の宮崎氏は
児童文学研究会に入り、そこからマンガ家を目指します。






焦燥感・・・手塚治虫コンプレックス





絵の勉強を始めた宮崎青年がまず取り組んだのが



知らず知らずのうちに影響を受けてしまった、
手塚治虫さんの絵柄の脱却でした。



宮崎氏の手塚コンプレックスはすさまじく、毎日、毎日、絵を描き癖を直し



過去に書いた自分のマンガの落書きを全て
処分したほどでした。




「自分は進歩しているのか?」「将来は大丈夫なのか?」





そうした言い知れぬ
焦燥感・・・





人一倍負けず嫌いで完璧主義者だった宮崎さんの一面がよくわかります。




また、政治にも大きな関心を持っていた宮崎さんは、当時下火になりつつあった




マルクス主義を主体とする学生運動の集会にも参加する様になりました。







マルクス主義とは?




マルクス主義
をわからない人のために簡単に説明します。



マルクス主義とは権力者を市民革命によって
自由で平等な社会を実現しよう



とする50年代ぐらいから
ソ連・中国などの共産主義国が世界中で宣伝を行った思想です。




ただ、その理想を掲げる共産主義国の実態は、ほとんどが独裁国家でありまして




現在の共産主義国家の
北朝鮮を例に挙げればわかりやすいと思います。




1989年のソ連崩壊によって、マルクス主義は一気に
下火になるんですが



60年代の日本共産党を始め、知的な若者の間では当時では最先端の知識として広まり




格差・差別のない理想の国家設立に向けて多くの若者が運動に加わりました。




宮崎青年
も例外ではなく、彼の作品にも大きな影響を与えます。








東映映画に入社〜瑞鷹エンタープライズへ移籍




1964年 22歳になった宮崎駿氏はアニメ制作会社の
東映映画に入社。



また学生運動の延長線上で
労働組合に入り、新人ながらも頭角を現します。



その後、
書記長に抜擢され、仕事と組合活動を精力的に働きました。




ちなみ、副委員長には宮崎氏の生涯の盟友・
高畑勲さんがいました。



高畑さんは
『火垂の墓』(1988)や『おもひでぽろぽろ』(1991)の監督として有名です。




そして72年、宮崎氏が始めて脚本を務めた
『パンダコパンダ』を制作します。




この作品は後の名作
『となりのトトロ』(1989)の原型とも呼ばれます。



この作品がヒットし、宮崎氏と高畑氏は
瑞鷹(ずいよう)エンタープライズに移籍




『アルプスの少女ハイジ』の制作にたずさわることになります。





『パンダコパンダ』(1971〜1972)
となりのトトロの原点!








異国の地での衝撃




1974年、宮崎さんは
『アルプスの少女ハイジ』の制作のため



自身が憧れの地でもあった、
スイスの農村の取材に訪れます。




しかし、その取材を通じて、宮崎さん自身の考えを多く
見つめ直すことになります。




外国でも日本の国旗をみると湧き上がる
嫌悪感



そして、戦前の日本の
軍国主義に激しい嫌悪感を抱きながらも



その軍関係に勤めた父がおかげで自分が育った事実の
罪悪感




そして、自身の作品を日本を舞台に出来ない
苦しみ・・・




しかし、外国での自分のその姿・考え方は
『日本人』であることを痛感させられます。




そう言えば、メジャーリーグの
イチロー選手も外国に移籍してから、




自分は
日本人であることを強く意識するようになったと語っていました。









「自分は何者の末裔(まつえい)であるのか?」








その時、宮崎さんが感じたのは、昔ながらの
美しい日本の自然への郷土愛であったそうです。





これがきっかけとなり宮崎さんは国家の枠、民族の壁、歴史の重苦から
開放されます。




「国家、民族、歴史を以前よりわかるようになった」


と後に、宮崎さん自身が語っています。





この取材を元に制作された
「アルプスの少女ハイジ」は日本で大ヒットになります。




また、ヨーロッパでも放送され、人気を集めました。







アルプスの少女ハイジ(1974〜1975)
恐怖の空中ブランコは現在でも伝説に・・・









失敗だった映画デビュー



「アルプスの少女ハイジ」は日本では大ヒットしました。



その後、
「名作アニメ劇場シリーズ」(1975〜1997)として宮崎駿さんは



『フランダースの犬』(75年)『母をたずねて3千里』(76年)などの名作に関わります。





その実績を元に1977年には
『未来少年コナン』に演出家としてデビュー。




原作と大きく異なるオリジナルストーリーは大きな評価得ました。




そして79年、あの名作を言われる
『ルパン3世 カリオストロの城』で映画監督デビューします。





しかし、興行成績は
さっぱり伸びず、再評価されたのは後ことでした。




その後も、日米合作映画
『リトル・ニモ』に参加するも、企画に疑問を抱き降板。




失意の中、
徳間書店が宮崎駿氏にマンガの企画連載をもちかけ



81年、
アニメージュ『風の谷のナウシカ』の連載が始まります。




これが、宮崎駿さんの大きな人生の転機に繋がっていきます。







ルパン3世 カリオストロの城』(1979)
評価は高かったが、興行的にはさっぱり・・・







『風の谷のナウシカ』の大ヒット・・・母の死






1984年、徳間書店と博報堂の共同制作 映画版
『風の谷のナウシカ』が公開されます。




環境問題などをテーマにしたこの作品は日本では大きな
反響を呼び起こし




宮崎駿の名を一躍、日本中に轟(とどろ)かせます。





余談ですが、
「風の谷のナウシカ」の巨人兵が火をはき爆発のシーンには宮崎氏を師とあおぐ




あの
『新世紀エヴァンゲリオン』の監督 庵野秀明さんが関わっています。






ところが映画が公開されて間もなく、宮崎さんの
母が71歳で他界します。



人生で一番影響を受けたのは母と語る宮崎駿さんにとっては大きな衝撃でした。






中国の旅へ




『風の谷のナウシカ』の公開と同じ年の1984年



宮崎氏は取材のため
中国を訪れる事になります。



若い時期はの共産主義の学生運動で活動し



共産主義系の雑誌にイラストを提供したこともあります。




中国共産党へ
特別な想いを抱いていることは間違いありませんでした。




しかし、帰国してからの宮崎氏は
「中国共産党」について二度と口にしなくなったそうです。



それから4年後の1989年、世界最大の共産主義国家
ソ連の崩壊・・・




共産主義国の
理想とはかけ離れた実態が明らかになります。






スタジオジブリの誕生




『風の谷のナウシカ』
の大ヒットにより、確固たる地位を確立した宮崎作品




その後、
徳間書店の出資によりスタジオジブリが誕生します。




1986年、宮崎駿さんが監督し制作された
スタジオジブリ作第一弾




『天空の城ラピュタ』
は観客動員数70万人と大ヒットを記録!



その後1988年の
『となりのトトロ』『火垂るの墓』 総動員数80万人




1989年の
『魔女の宅急便』はなんと264万人の総動員数を記録します!





スタジオジブリはアニメ界の歴史を塗り替え続けることになります。







『となりのトトロ』(1989)
宮崎監督自身の子供の頃の体験が元になっていた。






理想主義死なず!




そして1992年、スタジオジブリでも
異色と言われる『紅の豚』が公開されます。



あらすじは第一次世界大戦にて、軍の英雄として功績を挙げるが



その事を嫌い、軍を去り、自らに魔法をかけ豚の姿として生きる賞金稼ぎの物語です。



これは
宮崎氏自身をモデルに作られたそうです。



宮崎さんが理想として青春をかけた、共産主義の理想と現実の
大きなギャップ。



そして信じた理想が崩れ、
多くの人々がその理想や考えを捨てる中、



「オレは最後の赤になるぞ」
との意気込みで作られたと言われます。


※「赤」とは共産主義のカラーイメージが赤であるため、共産主義者の事をあらわします。






『紅の豚』(1992)
「飛べない豚は、ただの豚だ。」







マンガ版 風の谷のナウシカ再開




93年、マンガ版
『風の谷のナウシカの連載が再開されました。




そして94年には実に13年に及ぶ連載が終了します。





この中で宮崎駿さん自身の考え、そして
母への想いが随所に感じさせられます。






「人は自分だけは過ちが無いと信じながら、結局は同じ過ちを繰り返す」


「自分が進む道もまた、過去の人がやった事を繰り返しているに過ぎない」






この問いに対し、宮崎さんは作品の中で1つの答えを出しています。




その答えが何であるかは、是非、
原作のほうを読んでもらいたいと思います!







『風の谷のナウシカ』(1981〜1994)
このヒットがスタジオジブリの誕生のきっかけとなった。










宮崎駿から息子の宮崎吾朗へ




97年の
『もののけ姫』で一度は引退宣言をしていた宮崎駿さんですが



06年の
『ゲド戦記』から本格的に息子の吾朗氏への継承が進む様です。




どの業界も、2世が成功した例はほとんどありません。




偉大すぎる父親の存在は、吾朗氏がアニメの監督を続ける限り



大きな
プレッシャーとなり、一生涯、苦しみ続ける事になるでしょう。



吾朗監督のデビュー作の
『ゲド戦記』は父・駿氏の影響を大きく感じる作品でしたが




吾朗氏が父を超える時は、父の影響を捨てた時ではないでしょうか?




是非、偉大な父の壁を乗り越えて欲しいと思います。







『ゲド戦記』(2006)
賛否両論。吾朗監督はイバラの道へ旅立った。










異例の長文となってしまいました・・・


今回は
大泉実成さん著作の『宮崎駿の原点』


大いに参考にさせて頂きました。


大変読みやすいので興味のある方は読んでみてください。


最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました!









勝手ながら下記のHP・文献を参考に書かせて頂きました。

ありがとうございました!


『宮崎駿の原点』 潮出版社
著・大泉実成



フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki





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